人の顔は覚えられるのに名前が覚えられない。
何かの病気かな?と思うくらい覚えられない。
ようやく覚えた人の名前も突然、忘れることがある。
しかも、何年も仲良くしている友達と「あの時、めっちゃ笑ったよね!思い出すだけで笑いが止まらないよ」と大笑いしている時に、突然、「この人なんて名前だっけ?」となることがある。
鍵が見当たらなくて…徐々に本気で探し始めるみたいに…心はザワザワし始める。
「この人の名前はなんだっけ?…」
そうして僕はア行から五十音に沿って名前を思い出す作業を始める。
仕事でめちゃくちゃお世話になっている方がいる。
前日も無理を聞いてくれて…「タケシ君のお願いなら優先しちゃうよ!」と気持ち良く仕事を受けてくれた。
そして翌日、仕事でその人と一緒にお客さんのお宅を訪問することになった。
「いやぁ。昨日はありがとうございました!もう感謝しかありません」
「やだなぁ。そんなこと言わないでよ。タケシ君のためなら頑張っちゃうよ」
しかし、次の瞬間、「えっ…この人、なんて名前だっけ…」が襲ってきたのである。
鍵が見当たらなくて、ポケットを上から順に探るように…五十音の旅を始めるしかない。
そう思った時、その人が着ているジャージに名前が刺繍されていることに気付いた!
高橋
神の思し召しである。
朝、道を横切っていた猫に道を譲ったことのお返しであろうか。
高橋
ジャージにしっかりと刺繍されているではないか!
そこからは僕のターンだ。
お客さんとの面談でも「高橋さんは本当に良い人ですよ!」「高橋さんに任せておけば絶対に大丈夫!」「僕も高橋さんにはいつもいつも助けてもらっているんです」
ありがとう。ジャージの刺繍。名札とか刺繍を国民の義務にしても良いんだぞ。
そう思った時だった。
「あの…俺、山本です。今日、ボイラーが壊れて、服が汚れたんで高橋のジャージ借りてきたんです」
沈黙に音がした。シーンという音が聞こえた。
咄嗟に僕は「なんだぁ。やっぱり、そういう引っ掛け問題かぁ。やるなぁ。山本さん」と謎の発言をした。
乗り越えたのだろうか?僕は高橋のジャージを着た山本さんに許されたのだろうか?
昔、あるイベントで受付の仕事を頼まれたことがある。
準備をして、いざ本番。「みんなで今日のイベントを成功させよう!」とリーダーが気合を入れる。
隣にいた女の子が「タケシ君は今日なんの役目?私は焼きそばだよ」と優しい笑顔で話しかけてくれた。
「あっ!星野さんだ」 名前もバッチリ覚えている。完璧だ。
だが、次の瞬間、僕は震えた。
受付
この言葉が出てこないのだ。自分の役割は分かる。やることも分かる。
だが、受付という言葉が出てこない。
そこから星野さんと謎の伝言ゲームが始まった。
「えっと、俺、今日はさ、ほら入口に机を置いてさ…来る人にあなたは誰ですか?って聞いて…名簿に名前書いてもらってさ。で、その名簿を確認するっていう…なんだっけ?…なんかそういうやつ…」
「なに?えっ?受付?」
「わぁー!!それそれ、受付だよ。俺!」
あの時の星野さんの目が忘れられない。あれは雨に濡れたうす汚れた子犬を見るような目だった。
そんな僕だが今、コインランドリーにいる。
洗濯の乾燥を待ちながら、ほんのさっきまでコインランドリーが思い出せなくなっていた。ようやくさっきコインランドリーを思い出したところだ。
大丈夫。
忘れることはひとつの薬だ。
心が深く傷ついた時には時が薬になる。
神様は平等に時薬を処方してくれている。
若い頃は苦しかったことや悲しい出来事、傷付いた思い出は早く忘れたかった。
でも、歳を重ねて今はどんな思い出も忘れたくないと思う。
大切な人の名前や昨日食べたホットケーキの味や他愛なく笑いあったあの時間…
苦しかったことも傷付いたことも…どんな出来事も…
忘れたくないなぁ。